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3年 [shinsai]

2011年3月11日の東日本大震災から3年。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。  合掌
早く感じたり遅く感じたり、ただ間違いないのはあの日から3年が経ったということ。
鎮魂の日となったこと。

地震が起きた前後のことは今でも鮮明に覚えています。
前日、3月10日はS之介が高校に合格が決まり、夜は家で家族揃ってお祝いをし楽しい時間を過ごしました。
11日午前中は暖かで、中学校からいただいたパンジーで寄せ植えを作りました。
3時からの仕事に出かける用意をしていたときに今まで体験したことのない大きな揺れ。
ただごとではないとすぐに釜石に電話を入れましたが通じなくなっていました。
釜じい釜ばあの安否が確認できたのは地震から2日が経過してから。

大型バスが東北道を通行できるようになったその日、バスを乗り継いで釜石に入りました。
実家は殆ど被害がなかったものの、mochapapaと走った街は私の知らないモノクロの世界が広がっていました。

釜ばあの実家は大槌にあり津波の被害を受けていましたが奇跡的に流されずに元の場所に建っていました。
祖母、叔父2人、叔母、従弟が命を落としました。
竜宮城に行ったと思われる叔母はまだみつかっていません。
帰省すればいつでも会えると思っていたので、震災後、会える機会があるのなら会っておこうと思うようになりました。
菩提寺は地震後の火事で焼失し、祖父の眠る墓地は津波で流されてしまいました。

震災後、帰省する機会が増え、震災直後は自衛隊の車両が多く、時間が経過するにつれトラック、自家用車が増加。
東北道を走行するたびに傷ついていた道路が修復されていることに「日本てすごい!」と感動しながらハンドルを握りました。

復興にはまだかなりの時間がかかりそうですが、細くても小さくても長い応援をしていきたいと思っています。


2007年8月吉里吉里海岸
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もうすぐ半年(訂正あり) [shinsai]

前回の記事をupしたあと、せめて週1ペースで更新したいと思っていたのですが・・・気がついたらまたまた2ヶ月近く経っていました。

9月1日。
S之介は今日から2学期が始まりました。
早起きしてお弁当作りが復活。
いつもの毎日が始まりました。

もうすぐあの大地震から6ヶ月。
前回の記事に書いた直後、大槌で酒屋を経営していた叔父さんはDNA鑑定で死亡が確認されました。
しかし、叔母さんと祖母は未だに手がかりすらありません。
県警の方が、釜ばあのDNAを採取に来ました。

お盆は釜じいのところが忙しいので毎年帰省しています。
今年も喜多じいの家のお盆を済ませてから移動。

16日は檀家さんを集めて大きな法要があります。
そのときにおふかしと両山(永平寺と総持寺)の紋が入ったお煎餅を配ります。
おふかしとはお赤飯のこと。
私が小さい頃は、大鍋でお煮しめを作って出していました。

おふかしを配るようになってからは、毎年、大槌の酒屋の向かいにあった和菓子やさんにお願いし15升分を作ってもらっていました。
その和菓子やさんも津波で流されなくなってしまいました。
今年は遠野の仕出し屋さんにお願いしました。

お寺の行事のたびに酒屋に嫁いだ母のすぐ下の妹はお手伝いにきてくれていました。
その叔母さんが残してくれたメモが冷蔵庫に貼ってありました。
おふかしの量、お煮しめの材料の数、何をどのお店に注文するか・・・・など細かいことが書いてあります。
2月のお涅槃会に手伝いに来たときに「もし自分が来られなくなったら」という話をしていたのだそうです。
まさかそれから1月もしないうちに会えなくなるとは。

釜ばあは16日の朝も冷蔵庫に貼られたメモを見て泣いていました。
一日も早く、帰ってきてくれることを皆が望んでいます。


この2ヶ月いろいろな出来事がありましたがその中から明るい話題をピックアップ。

①ニューフェイス。

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突然ですが、ショパンの子分ができました。
夏恒例のワイフォビーバーになる日、今年も名栗川でショパンもビーバーに変身。
REON課長のところの社長さんのリードさばき、素晴らしいです。

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その帰り、埼玉エアデールエリアクラブのトリミング会で講師をお願いしている鹿戸先生のところにパピーがいるとのことで、帰りに川遊びをした皆で見に行きました。
MAX&SAM家のきむさんには交通整理までしていただきありがとうございました。

行くときにはショパンだけだったのに、帰りはなぜかもう1頭。
翌日すぐにお墓掃除をしに喜多じいのところに帰省していたmochapapaに引渡し。

官九郎と命名。
ムック(M・シュナウザー)に見えますがMIXです。
今は釜じいのところで釜ばあ、mochapapaと一緒に暮らしています。
犬がいなくて寂しいというmochapapaにモカかショパンを派遣することを考えましたが、ショパンは私とモカがいないと生きていけないので。

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あいかわらずしつけ係りのモカは官九郎にもビシビシ。
ショパンは・・・すごく官九郎に気を使っています。
そんなショパンがすごくかわいいのだけれど。
官九郎は怖いもの知らずなのでモカにぴったりくっついて寝ようとすることも。


②津波に飲まれながらも生還することができた従弟が酒屋を再開するのに車が必要とのことで、届けに行きました。
春日部を走っていた車が今は被災地で活躍しています。


③釜じいの幼稚園にピーターハウスが完成。8月27日に落成イベントが行われました。

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震災後、幼稚園にログハウスをという申し出があり、釜じいのところに建てていただくことになりました。
新潟から船で釜石港に材料が届いたもののお寺の参道が狭くトラックが入れないため、釜石のラグビーチーム釜石シーウェイブスの猛者たちが材木を担いで建設現場まで運んでくれました。

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ピーターさん、クラウドさん、地元の佐々光建設の皆さん、釜石シーウエィブスの皆さん、ありがとうございました。
きっとずっと語り継がれることと思います。

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ピーターさん編集の動画。



ちょうど車を届けに行ったときに建設中。
1時間くらい私も手伝いました。
木と木の間に敷くフェルトのようなものをサイズに合わせて薄く伸ばすという作業。
時間があればもっと手伝えたのになあ。

たくさんの方々の温かい気持ちがいっぱいの素敵なログハウスです。



以前から思っていましたが、人と人との繋がり、ご縁ってあるんだなぁと震災以後より強く思うようになりました。

*訂正
 すみません。クラウドさんは通訳ではなくログハウスビルダーでした。
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「がんばろう!岩手」宣言!! [shinsai]

3月11日東日本を襲った未曾有の大地震と大津波。

あれから一カ月。
被害に遭われた方には心よりお見舞い申し上げます。
亡くなられた方々にはお悔やみを申し上げます。

被災地はもちろんのこと、被災地から遠く離れたところまでもがそれまでと全く違う生活を送ることになってしまいました。

私は前の記事をupした後、釜じいのところなるべく早く入ろうと思っていたのですが、新幹線は動いていないし、ガソリンの不足も伝えられたため車も使えずしばらく田舎に戻るのは無理だとあきらめていました。

そんな中、盛岡行の深夜高速バスが22日から増便されるとの情報があり、すぐにチケットを手配し盛岡に向かいました。
深夜バスは生まれて初めて。
バスが出発する東京駅には大きな荷物を持ったたくさんの人。
盛岡に向かうバスは全部で15台。
高速道路を通行できるのは、救援に向かう車両、物資の運搬をする車、大型車両だけ。
15台を連ね、東北道を北上。

寝付けず、やっと寝られたかと思うとSAで休憩。
2時間おきに休憩なのでうつらうつらしたかと思うと目が覚めます。
眠られないまま朝を迎え、バスの窓から見える外の景色は・・・・・
いつもと変わらないけれど、違うのは、高速道路を走る車は今まで見たこともないような自衛隊のカーキ色のたくさんの車。被災地へ救援物資を運ぶ大きなトラック。

盛岡からは、釜石へ向かうバスに乗り換え。
バスの中は話をする人も無く、とても静か。
誰もが話が出来る状態ではなかったのです。
っそして2時間半。
私が生まれ育った街に着きました。

私の母校の小学校、中学校は避難所になっており、また自衛隊の基地にもなっていました。
中学校の校庭が自衛隊の車やテントで埋め尽くされ戦場のようでした。

電車とバスを乗り継いで14時間、やっと釜じいの家に。
釜じい、釜ばあ、お父さんとを亡くしたいとこ、行方不明の叔父さん叔母さんを大槌に探しに行った帰りのいとこもいました。
そこに居合わせたみんなの無事を確認し安心しましたが・・・・・

釜じいの家はお寺。
普段の檀務に加え次々と入るお葬式の連絡。
釜じいと寛おじの二人で交代に亡くなられた方を一人一人供養しています。
海に近いお寺は津波で流されてしまったところもあるし、津波の後の火災で焼失してしまったところも。
そちらのお寺ができるまでということでお預かりしているご遺骨も檀家さまと同じようにご供養しています。
それは今でも続いています。
震災後一カ月が経ちますが、自衛隊、米軍の大捜索で新たに見つかる方もまだまだ多く、供養はこの先もしばらく続きます。

普段は釜じい、釜ばあ二人だけの生活ですが、寛おじ、いとこ兄妹、家族と家を失ったいとこの親友とその彼女、今は8人での合宿みたいな生活です。
ときどき、いとこの友人が大槌に行く途中の中継点として宿泊することもあります。
私は、電話番、お掃除、その他もろもろの雑用と食事の用意。
若いみんなも手伝ってくれています。

釜じいの家があるあたりは、水道やガスが止まったりしたところがあるものの、建物の被害はほとんどありませんでした。
最近になって壁にひびが入っているのを発見しましたが。

釜石駅の先に大渡橋という大きな橋がありますが、そこを境に町の景色が変わってしまいます。
潰れた車、瓦礫の山、壊れた店舗。
言葉を失うほどの惨状がそこには広がっていて言葉を失いました。
車が走れるよう大きな道路の瓦礫は撤去されていましたが、私が知っている街はそこにはありませんでした。

あれから一カ月。
避難所での生活をしている方々も多いのですが、お店も営業を再開し、少しだけ落ち着きを取り戻しつつあります。

今日、達増知事が私の母校、釜石高校(卒業当時は釜石南高校でしたが)で黙とうを捧げ、『がんばろう、岩手宣言!』をしました。
幾度の災害をも乗り越えてきた岩手県です。
今回も何年かかるかわかりませんが、きっと皆が力を合わせて復活することと信じています。

最後になりましたが、現地で救援、捜索活動をしている方々、いろいろなボランティアをしてくださっている方々、遠くからも応援して下さっている皆様、後方支援して下さっている皆様、本当にありがとうございます。
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東日本大震災 [shinsai]

大地震の被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます。
避難生活を送っている方、救助を待っている方々、行方不明の方々、
一刻でも早く、1人でも多くの命が救われるように祈っています。


3月11日、本当はS之介高校合格!の記事をupする予定でした。


しかし、突如東日本を襲った巨大地震。
すぐに釜じいに電話を入れたのですが、既に通じなくなっていました。

このときmochapapa、M子と私は家に、S之介は友人と原っぱで野球。
モカ&ショパンはグースカ。

揺れの大きさに驚いて私は急いで逃げ道確保のため、玄関ドアを開けました。
マンション3階は激しく大きく長く揺れました。
目の前の電線は異様な音を上げ激しく揺れ、電柱は折れそうなくらいに撓っていました。

玄関の棚の上にあったディスクがバラバラと落ちました。
mochapapa作の陶器のコップが2個割れたくらいで意外と被害は少なくちょっと安心。

モカがおとなしいと思ったら棚から落ちたお菓子をこっそりムシャムシャ。
ショパンは、やはり棚から落ちたおもちゃをかじってピーピー。

モカとショパンは地震が来るといいことが起きる~と学習しちゃったかも。


釜じいと連絡がつかないまま私は仕事へ。
仕事場は壁にヒビが入ったけれど仕事には差し支えない様子。
大きな揺れにビクビクしながら仕事らしい仕事もないので早く帰してもらいました。

都内にいる弟や友人たちと連絡を取りあい、情報の交換。
テレビから流れる火事の映像。

一夜明けて、被害の大きさがわかってきました。

しかしいつになっても釜じいの住んでいるところの情報がテレビから流れてくることはなく、
それはPCも同じでした。
mixi、twitterでも、皆釜じいが住んでいる地域の情報を求めていました。

阪神・淡路大震災のときにも、
一番大きな被害を受けたところは通信手段が絶たれて情報が入らなかったことを思い出し、
きっと大きな被害を受けていることを覚悟しました。

徐々に大津波の被害が出てきたので心配していると夜になってから、
釜じいが住んでいる街の目抜き通りと思われる映像が・・・
車の上に重ねる車。
破壊された家。

地震が来たら高台へ逃げろ!!と市民なら誰もが知っています。
きっと皆避難したのだろうと思っていました。

釜じいの家は海から離れていますから津波の被害はないだろうと思っていましたが、
もし用事があって町の中心地に出かけていたら・・・とか、家が崩壊して何かの下敷きになっていたら・・・

次に出てきた映像は大波が押し寄せ、電柱をなぎ倒し、家や車を次々飲み込み、水が襲ってくるもの。
あまりのショックに声も出ませんでした。

それでも、自衛隊が遠野に入ったという情報をみつけたのできっとどうにかしてくれるはずと信じていました。


そして今日の午後、釜じいも釜ばあも無事という知らせが入ってきました。

よかった。

気管支が弱いので、風邪をひいていたら大変と心配していましたが、そんなこともなくとても元気だと。
戸棚が倒れたりはしたものの被害は少なく、家で過ごせるとのこと。
ライフラインは、停電しているものの水が出るし、プロパンガスなのでお湯が沸かせて即席めんが食べられること。
固定電話も携帯電話も全く使えないため通信手段が全くないこと。

市内でも、駅から目抜き通り、浜のほうはやはり津波の被害が大きく通行止めになっているけれど、五の橋から西の地域は被害が少ないようで家が倒壊しているようなこともないらしい。
釜じいのように皆自宅で過ごしているようです。

遠野の公衆電話から弟のところに連絡があり釜じいの様子がわかりました。


釜じい釜ばあ無事の知らせは嬉しかったのですが、
大槌に住んでいた祖母や多くの親類、同級生の安否が未だわかっていません。

津波の後、街が火事に見舞われ、焼け野原。
大きな建物しかないような状態。

それでも避難をしている住民が2800人いるとのことなので、どこかにいるのではないかと願っています。
夜になって叔母が1人、避難所にいることがわかりました。


日本中、世界中からたくさんの救助、応援が震災の地に届いています。
ありがとうございます。

まだ早いかもしれませんが、鋼の心を持った釜石の方々。
復興の灯を。

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