「がんばろう!岩手」宣言!! [shinsai]
3月11日東日本を襲った未曾有の大地震と大津波。
あれから一カ月。
被害に遭われた方には心よりお見舞い申し上げます。
亡くなられた方々にはお悔やみを申し上げます。
被災地はもちろんのこと、被災地から遠く離れたところまでもがそれまでと全く違う生活を送ることになってしまいました。
私は前の記事をupした後、釜じいのところなるべく早く入ろうと思っていたのですが、新幹線は動いていないし、ガソリンの不足も伝えられたため車も使えずしばらく田舎に戻るのは無理だとあきらめていました。
そんな中、盛岡行の深夜高速バスが22日から増便されるとの情報があり、すぐにチケットを手配し盛岡に向かいました。
深夜バスは生まれて初めて。
バスが出発する東京駅には大きな荷物を持ったたくさんの人。
盛岡に向かうバスは全部で15台。
高速道路を通行できるのは、救援に向かう車両、物資の運搬をする車、大型車両だけ。
15台を連ね、東北道を北上。
寝付けず、やっと寝られたかと思うとSAで休憩。
2時間おきに休憩なのでうつらうつらしたかと思うと目が覚めます。
眠られないまま朝を迎え、バスの窓から見える外の景色は・・・・・
いつもと変わらないけれど、違うのは、高速道路を走る車は今まで見たこともないような自衛隊のカーキ色のたくさんの車。被災地へ救援物資を運ぶ大きなトラック。
盛岡からは、釜石へ向かうバスに乗り換え。
バスの中は話をする人も無く、とても静か。
誰もが話が出来る状態ではなかったのです。
っそして2時間半。
私が生まれ育った街に着きました。
私の母校の小学校、中学校は避難所になっており、また自衛隊の基地にもなっていました。
中学校の校庭が自衛隊の車やテントで埋め尽くされ戦場のようでした。
電車とバスを乗り継いで14時間、やっと釜じいの家に。
釜じい、釜ばあ、お父さんとを亡くしたいとこ、行方不明の叔父さん叔母さんを大槌に探しに行った帰りのいとこもいました。
そこに居合わせたみんなの無事を確認し安心しましたが・・・・・
釜じいの家はお寺。
普段の檀務に加え次々と入るお葬式の連絡。
釜じいと寛おじの二人で交代に亡くなられた方を一人一人供養しています。
海に近いお寺は津波で流されてしまったところもあるし、津波の後の火災で焼失してしまったところも。
そちらのお寺ができるまでということでお預かりしているご遺骨も檀家さまと同じようにご供養しています。
それは今でも続いています。
震災後一カ月が経ちますが、自衛隊、米軍の大捜索で新たに見つかる方もまだまだ多く、供養はこの先もしばらく続きます。
普段は釜じい、釜ばあ二人だけの生活ですが、寛おじ、いとこ兄妹、家族と家を失ったいとこの親友とその彼女、今は8人での合宿みたいな生活です。
ときどき、いとこの友人が大槌に行く途中の中継点として宿泊することもあります。
私は、電話番、お掃除、その他もろもろの雑用と食事の用意。
若いみんなも手伝ってくれています。
釜じいの家があるあたりは、水道やガスが止まったりしたところがあるものの、建物の被害はほとんどありませんでした。
最近になって壁にひびが入っているのを発見しましたが。
釜石駅の先に大渡橋という大きな橋がありますが、そこを境に町の景色が変わってしまいます。
潰れた車、瓦礫の山、壊れた店舗。
言葉を失うほどの惨状がそこには広がっていて言葉を失いました。
車が走れるよう大きな道路の瓦礫は撤去されていましたが、私が知っている街はそこにはありませんでした。
あれから一カ月。
避難所での生活をしている方々も多いのですが、お店も営業を再開し、少しだけ落ち着きを取り戻しつつあります。
今日、達増知事が私の母校、釜石高校(卒業当時は釜石南高校でしたが)で黙とうを捧げ、『がんばろう、岩手宣言!』をしました。
幾度の災害をも乗り越えてきた岩手県です。
今回も何年かかるかわかりませんが、きっと皆が力を合わせて復活することと信じています。
最後になりましたが、現地で救援、捜索活動をしている方々、いろいろなボランティアをしてくださっている方々、遠くからも応援して下さっている皆様、後方支援して下さっている皆様、本当にありがとうございます。
あれから一カ月。
被害に遭われた方には心よりお見舞い申し上げます。
亡くなられた方々にはお悔やみを申し上げます。
被災地はもちろんのこと、被災地から遠く離れたところまでもがそれまでと全く違う生活を送ることになってしまいました。
私は前の記事をupした後、釜じいのところなるべく早く入ろうと思っていたのですが、新幹線は動いていないし、ガソリンの不足も伝えられたため車も使えずしばらく田舎に戻るのは無理だとあきらめていました。
そんな中、盛岡行の深夜高速バスが22日から増便されるとの情報があり、すぐにチケットを手配し盛岡に向かいました。
深夜バスは生まれて初めて。
バスが出発する東京駅には大きな荷物を持ったたくさんの人。
盛岡に向かうバスは全部で15台。
高速道路を通行できるのは、救援に向かう車両、物資の運搬をする車、大型車両だけ。
15台を連ね、東北道を北上。
寝付けず、やっと寝られたかと思うとSAで休憩。
2時間おきに休憩なのでうつらうつらしたかと思うと目が覚めます。
眠られないまま朝を迎え、バスの窓から見える外の景色は・・・・・
いつもと変わらないけれど、違うのは、高速道路を走る車は今まで見たこともないような自衛隊のカーキ色のたくさんの車。被災地へ救援物資を運ぶ大きなトラック。
盛岡からは、釜石へ向かうバスに乗り換え。
バスの中は話をする人も無く、とても静か。
誰もが話が出来る状態ではなかったのです。
っそして2時間半。
私が生まれ育った街に着きました。
私の母校の小学校、中学校は避難所になっており、また自衛隊の基地にもなっていました。
中学校の校庭が自衛隊の車やテントで埋め尽くされ戦場のようでした。
電車とバスを乗り継いで14時間、やっと釜じいの家に。
釜じい、釜ばあ、お父さんとを亡くしたいとこ、行方不明の叔父さん叔母さんを大槌に探しに行った帰りのいとこもいました。
そこに居合わせたみんなの無事を確認し安心しましたが・・・・・
釜じいの家はお寺。
普段の檀務に加え次々と入るお葬式の連絡。
釜じいと寛おじの二人で交代に亡くなられた方を一人一人供養しています。
海に近いお寺は津波で流されてしまったところもあるし、津波の後の火災で焼失してしまったところも。
そちらのお寺ができるまでということでお預かりしているご遺骨も檀家さまと同じようにご供養しています。
それは今でも続いています。
震災後一カ月が経ちますが、自衛隊、米軍の大捜索で新たに見つかる方もまだまだ多く、供養はこの先もしばらく続きます。
普段は釜じい、釜ばあ二人だけの生活ですが、寛おじ、いとこ兄妹、家族と家を失ったいとこの親友とその彼女、今は8人での合宿みたいな生活です。
ときどき、いとこの友人が大槌に行く途中の中継点として宿泊することもあります。
私は、電話番、お掃除、その他もろもろの雑用と食事の用意。
若いみんなも手伝ってくれています。
釜じいの家があるあたりは、水道やガスが止まったりしたところがあるものの、建物の被害はほとんどありませんでした。
最近になって壁にひびが入っているのを発見しましたが。
釜石駅の先に大渡橋という大きな橋がありますが、そこを境に町の景色が変わってしまいます。
潰れた車、瓦礫の山、壊れた店舗。
言葉を失うほどの惨状がそこには広がっていて言葉を失いました。
車が走れるよう大きな道路の瓦礫は撤去されていましたが、私が知っている街はそこにはありませんでした。
あれから一カ月。
避難所での生活をしている方々も多いのですが、お店も営業を再開し、少しだけ落ち着きを取り戻しつつあります。
今日、達増知事が私の母校、釜石高校(卒業当時は釜石南高校でしたが)で黙とうを捧げ、『がんばろう、岩手宣言!』をしました。
幾度の災害をも乗り越えてきた岩手県です。
今回も何年かかるかわかりませんが、きっと皆が力を合わせて復活することと信じています。
最後になりましたが、現地で救援、捜索活動をしている方々、いろいろなボランティアをしてくださっている方々、遠くからも応援して下さっている皆様、後方支援して下さっている皆様、本当にありがとうございます。
ご実家の被災が軽度であったご様子に安堵。
数年前、友人夫婦と石巻から宮古まで旅をして、行く先々で楽しんだ風向明媚な景観を思い起こすに報道されている今の姿に言葉がありません。
人伝にご郷里に出向かれておられると伺っておりましたがご心労のほど如何許りかと存じます。
彼の地のご親族皆様がご体調を崩されませんよう願っております。
by BOW WOW (2011-04-12 21:14)
3月11日を境に、いろんなことが変わりました。
モカ家のパパさん、ママさんが交代で行き来されて
献身的なご様子に本当に現地の方々が感謝されていることと思います。
いつも楽しいモカ家、そして美味しいモカママさんのお料理、
きっとみんなの光になっているのでしょうね。
「がんばろう!岩手」は、「一緒に頑張ろう!岩手」ですね!
どうか皆様おつかれがたまりませんように。
by REON課長 (2011-04-14 14:46)